「セルフ地鎮祭」について思うこと
大和八幡神社の信者・崇敬者・親和者のみなさん、7月半ばになりましたがいかがお過ごしでしょうか。
連日暑い日が続きますね。
さて、神道らしいネタがありませんので、「セルフ地鎮祭」なるものについてツラツラ書いていこうと思います。「セルフ地鎮祭」とは神職による地鎮祭ではなく、自分たちだけで米塩酒を四方に撒く行為を「セルフ地鎮祭」と呼んでいるようです。
地鎮祭は『日本書紀』持統天皇5年が初見とされています。庶民の家と貴族(豪族)の家では規模や建て方が違うので、全ての人が地鎮祭を行っていたかどうかは想像によります。
柱となる木を切る、穴を掘る、柱を立てる行為は同じなので、何かしら庶民も地鎮祭らしきものを行っていたのではないかと思います。神職が定職化するのは後の時代のため、祭りを司る者が必ずしも神主だったとは限りません。
だから「セルフ地鎮祭」も昔の神職に頼らない形に戻ったといえ、自分ですること自体問題ではありません。
ただし、ご自身の家なので構いませんが、私には「ただの行為」としか思えません。地鎮祭というからには「祭り」でなければなりません。
それを「セルフ地鎮祭」と名付けたところに、私はイヤラシサを感じてしまいます。「予算に合わないからしない」で十分な信念です。それなのに「しないと怖いから、とりあえず塩を撒けばOK」「あの人もやっているんだから大丈夫」という考えが地鎮祭にふさわしくない。
祭祀概論(西角井正慶著)の1ページ目に「祭祀とは神を祭ることである」と書かれています。日本の祭りは神様あってこそ。現代使われている「祭り」は見本市、展示即売会の「フェア」の感覚とごちゃまぜになっていないでしょうか。
言葉は使っている人が多くなれば意味が変わってしまう(変わってしまった)テレビでは流行の乱雑な言葉使いが多いようなきがします。たかが「フェア」と「祭り」なんだけども、随分違うことに気づいてほしいですね。
だから、「セルフ地鎮祭」をする場合、ちゃんと自身の土地の神に向き合って欲しい。四方を廻るのは四方を司る神様がいます。「切麻散米はお供えでもある」と大教の大老から教わりました。「撒く」のと「供える」では動作まで変わります。
また、米・酒・塩は魔法の道具ではありません。それ自体がもつ威力と神様からのご守護によってお祓い頂くのです。とりあえず撒くのでは、ないのです。気持ちが大事ならば、「とりあえず撒く」気持ちは神様に向かうに相応しい気持ちであるかどうか確認して頂きたいものです。
大和八幡神社の信者・崇敬者・親和者のみなさんに、「セルフ地鎮祭」への鬱憤を当ててしまい申し訳ありませんでした。良いことの方が多いのですが、暑い中大雨の中奉仕している身としては、地鎮祭を簡単に考えてほしくないなーと思い、今回のネタにしました。
そして、「セルフ地鎮祭」に対抗するべく新たな挑戦として、金銭面を前面に出した「地鎮御祈願祭」を新たに作りました。LCCなどの何でもオプションにしてコストを抑えるスタイルにしています。それにすることで、施主が自分で納得して地鎮祭の内容を選べるようにしました。
先代の時代は「一式でご用意」が施工や施主に面倒がなくて良かったと思います。物価上昇しても給与が30年変わっていない時代です。どうしても「お金」が気になる時代です。なので、神社に相応しくないですが、金額を前面にだしました。あまり悪評ばかりだったらすぐに止めます。