大祓詞に流れる日本人の心、よりよい明日への祈り
水無月の名越の祓する人は 千歳の命のぶといふなり(一条兼良『公事根源』)
水無月の名越の祓する人は 千歳の命のぶといふなり(拾遺和歌集)
大祓式は毎年6月と12月の晦日に、人が知らずしらず犯した罪穢れを祓い清め、災いを避けることを目的としています。
大祓式で読む大祓祝詞は『延喜式祝詞』に収められ、「神祇令」に大祓式について規定されています。
この記事では大祓についてまとめ、無意識に私たちが大祓に求めているものは何かを考えてみたいと思います。
大祓と大祓詞
大祓詞は6月と12月だけに読むだけではなく、神道大教では日々のお祭りや月次祭でも奉唱します。普段読んでいる私たちの大祓詞は「延喜式祝詞」に収められた大祓詞を神々に祈願する詞に変えられたものです。
現在は年2回の大祓式でしたが、臨時で行う諸国大祓や謀反や穢れが生じたとき、重要なお祭りが行われる前にも大祓を行いました。また、食材の物品を差し出させる刑罰の大祓もありました。
大祓の初見は『日本書紀』に見ることができます。この時は「大祓」といわず「大解除」と書いています。
大祓はどんなことが行われていたか
現在の大祓式は茅の輪をくぐり、和紙でできた人形で体をなで息を吹きかけます。また、縄をほどく祓い、布を裂く祓いを行います。
昔の大祓の様子は「神祇令」に求めることができます。
凡六月十二月晦日大祓者。中臣上御祓麻。東西文部上祓刀。読祓詞。訖。百官男女。聚集祓所。中臣宣祓詞。卜部為解除。
中臣氏が天皇に御麻を捧げます。次に刀でお祓いして、祓詞を奏上します。この祓詞も「延喜式祝詞」に収められています。
そのあと、平城宮の朱雀門に親王以下百官の官僚達が集まり中臣氏が大祓詞を読み上げました。この頃の木製の人形が多く見つかっていることから考えると、思い思いの人形を持ち寄り、切麻などで不浄を解き除いたと考えられます。
大祓詞の最後の方に「今年の六月の晦日の夕日の降の大祓に」とあります。朱雀門に申の刻に集まったといわれています。この時の六月は旧暦なので今の8月くらいで、日の入りは18時30分くらいでしょうか。
4~5時に集まって、祝詞を読みお祓いをしたら、空はあかね色だったんでしょうね。
祓いのルーツ
大祓のルーツ、祓いのルーツは2つ考えられます。
黄泉の国の訪問
1つめは伊邪那岐命が炎で焼き死んだ伊邪那美命を追って黄泉の国に行ったことが原因です。「しこめしこめき汚き国」に行ったので筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓いを行いました。
身につけた衣服から、水で体をすすいだときに落ちた汚れから、川に沈んだとき、それぞれ沢山の神様を生みました。
最後に顔を洗った時に特に清らかな三人の神様を生みました。天照大御神、月読神、素戔嗚尊を生みました。
そして、伊邪那岐命が祖神から受けた使命を天照大御神に託しました。
高天原の訪問
2つめは素戔嗚尊が高天原悪さをしたことが原因です。
素戔嗚尊は伊邪那岐命から海の世界の統治するように命じられました。しかし、そのご命令に従わず母の住む黄泉の国行きたいと、泣きわめいていました。
それを見た伊邪那岐命は地上世界から追放しました。そこで、黄泉の国に行く前に天照大御神のいる高天原を訪れました。
高天原では素戔嗚尊の悪さは田畑を荒らしたり御神殿を汚したりしました。天照大神はその都度「悪い行いにも意味がある」とポジティブに捉えて許していました。でも、機織りの女神が死んでしまうと、とうとう天の岩屋戸にこもります。
高天原の神々は相談して天照大御神を天の岩屋戸から出てきて貰うように計画を立てました。計画は無事に成功し、素戔嗚尊は高天原から追放されました。
素戔嗚尊がした高天原の悪さは天津罪とされています。
罪穢れとは何か
罪穢れは神道では大事な考え方ですが、これは何でしょうか?地鎮祭などの御祈願に入る前に修祓を行って、参列者や祭場を祓い清めます。その時に、私は以下のように罪穢れを説明しています。
「罪は心を包み隠して、本来の自分ではない行動や考えをすることです。また、穢れは考えたり悩みすぎることで生じる気枯れです」
元気ではない状態は気枯れです。「死」は最も気を失います。伊邪那岐命は伊邪那美命を失い、天照大御神は機織りの女神を失いました。身内や大切な人が亡くなった時に元気でいらる人はほとんどいないでしょう。
また、追放された後の素戔嗚尊を考えると、高天原で悪さをしていた素戔嗚尊は本来の自分ではありません。
伊邪那岐命の清められた体から生まれた神様は、天照大御神と同じように清らかで御神徳も高い存在のはずです。そのため、海の世界の統治を任されました。
「本来の自分」、この定義はなかなか難しいですが、「ありのままの自分」という意味ではありません。
海の世界の統治を放棄し、高天原で悪さをした「心」に原因はあります。私はそれを「エゴの心」と考えています。「私を見て欲しい」「私を愛して欲しい」そのような気持ちが素戔嗚尊にあったのではないでしょうか。
本来の自分とは、天照大御神の御心と同じように「悪い行いにも意味がある」と前向きに捉え、前進していく姿勢の中にあります。
罪穢れとは本来の自分から離れれ原因となった状況や環境、そしてその行為と考えられます。
大祓を行う意味
大祓を行う意味を以下のように冒頭で書きました。
大祓式は毎年6月と12月の晦日に、人が知らずしらず犯した罪穢れを祓い清め、災いを避けることを目的としています。
確かにこの意味で間違いはありません。ただ、この意味だけでは不足のような気がします。
私たちが毎日また事あるごとに、宣り聞かせる大祓詞から祈願する形にかえた大祓を読むのは、祈りがあるからです。
それは、祓いのルーツにも見える「死」からの再生や新しい力を得て修理固成を担うことです。
伊邪那岐命と伊邪那岐命は天津神の「この漂える国を修め作り固めなせ」というご命令を受けました。ここに伊邪那岐命の出発点があります。祓いの出発は「修理固成」となります。
私たちも「修理固成」を担う存在です。究極の「死」という問題に向き合って、本来の自己を見つめ直し、悔い改めることが「祓い」と云えます。
お祓いは反省をして、よりよい自分になろうと心新たになります。
大祓を行う意味は、よりよい明日をつくろうと決心することではないでしょうか。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。