釈奠に参列、「論語・学而第一」を奉唱して

令和5年10月15日学ぶより習う

先月末に台北の孔子廟で行われる釈奠(せきてん)に参列しました。

釈奠とは孔子やその弟子を功績を称えるお祭りです。釈奠の「釈」とは置く、「奠」は据えるの意味で、孔子や弟子達にお供え物をたてまつるお祭りです。9月28日は孔子の誕生日とされており、台北では毎年9月28日に釈奠が行われています。

日本の儀式制度は中国に倣って考えられたことがうかがえます。

釈奠といわれるだけにお供えが重要視されています。それは私の経験からいうと献饌の儀が祭員にとっては一番重要です。全員が同じ動作になるようにタイミングを見計らい、献饌を落とさないように、出す足を間違えないように、次の祭員に渡します。そして12台無事に神饌をお供え終わるまでは気が抜けません。

釈奠では、神迎えから始まりました。それから献饌の儀として、お食事やお香を供えました。日本の雅楽の原型のような楽器で舞が奉納されたり、祝詞にあたる祝文が奏上されました。

途中、小雨が降りましたが、そのおかげで二度も虹がかかりました。孔子や弟子が喜んでいるのではないか、人の心は幽玄世界にも届くのだと感動しました。

釈奠が終わり境内に人が少なくなった頃、私たちの団体は『論語』の学而第一を孔子に向かい三礼の後に奉唱(素読)しました。読み終わると、また三礼しました。普段は二礼二拍手なので、なんとなく手を叩きたい気持ちになりましたよ。

旅行中、他の孔子廟でも『論語・学而第一』を奉唱しました。論語の冒頭にはこんな一文があります。

子曰わく学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)遠方より来る有り、亦楽しからずや。

訳:聖賢の道を学んで、時に応じてこれを実践し、その真意を自ら会得することができるのは、なんと喜ばしいことではないか。共に道を学ぼうとして、思いがけなく遠方から同志がやってくるのは、なんと楽しいことではないか。

仮名論語 伊與田覺著

知っている・分かっているだけではダメで、会得することの重要性を「喜ばしい」と言われています。

ニュースには教師や警察官、宗教者による耳目を疑うような出来事があります。資格を得てその職業に就くまでは沢山学ぶはずです。大人になるまでに沢山のことを学びます。論語の言葉に当てはめると、学ぶだけで、時に応じて習っていない人が多いように感じます。

私も同じです。神道大教で大切にされている四大信条「天徳・地恩・清浄・光明」はそれぞれ「宇宙観・処世観・人生観・処世観」と4つの教えを説いていますが、まだまだ会得していません。

今回、学而第一を孔子廟で奉唱した理由は「習う」がおろそかになっていないか、知識ばっかりで理屈屋になっていないか、学んだことの中に思いやりはあるのか、そんなことを神様にいわれているのかな、と思いました。

「学習」の言葉のように学ぶと習うは一体です。習うがおろそかになったいないか、特に今まで沢山勉強してきた人は振り返ってみましょう。ちなみに「勉強」は本当はしたくないのにしなくちゃいけない気持ちが含まれています。

よーく目をこらして見てください、二重の虹です