罪穢れと祓いについて:祓いの祈りには2種類ある
今回は「罪穢れと祓い」について考えてみようと思います。きっかけは、SNSで見かけた投稿です。
その投稿では、ある神道宗教者が「謝っても許さない」という姿勢を示し、相手に「罪を背負って生きるべきだ」と述べていました。投稿者は、神道における罪穢れの祓いが重視されるべきであり、その宗教者の発言に矛盾を感じたと述べていました。
この投稿を見たとき、私は違和感を覚えました。それは、引用された「遺󠄁る罪は在らじと、祓へ給ひ淸め給ふ」という言葉が、本来神様に対する祈りであることが無視されているように感じたからです。確かに「祓え」は人が行う行為ですが、その行為が実際に罪や穢れを祓うかどうかは、最終的には神様の御心にかかっていると考えています。
神道における「祓い」は、清浄を保つための重要な行為であり、年に2回の大祓や日々の神職の務めにおいてもその重要性が強調されています。大祓詞には「天津罪」と「国津罪」があり、前者は社会的秩序を破壊する行為、後者は自然災害や疾患などの不浄や災厄を含みます。
素戔嗚尊が高天原で犯した罪穢れは「天津罪」に分類され、農作業の妨害や傷害・殺人といった社会的秩序を破壊する行為が含まれます。彼は髭を剃り全ての爪を剥がされ、多くの供え物を差し出した後、高天原から追放されました。このように、罪穢れは単なる謝罪や償いだけでは解消できない深刻なものであり、神道における罪咎の広範さと霊的な側面を示しています。
また、祓いは通常、罪穢れを起こした当事者がその罪を清めるために行いますが、被害者の祓いは異なります。被害者は、自分が被った苦しみや悲しみを解消し、心の平安を取り戻すために祈りや儀式を行いますが、これは他者の罪穢れを直接的に解消するものではありません。被害者の祓いは、罪穢れを起こした者の行為を祓うこととは異なる側面を持っています。
このように、神道における罪穢れと祓いの重要性は、古代から現代に至るまで変わることなく続いています。罪穢れは単なる謝罪や償いでは解消できず、祓いそのものも完全な解決を保証するものではありません。祓いは罪穢れの解消を願う行為であり、その背後には、罪を犯した者と被害者の祓いが存在します。
素戔嗚尊の例を通じて、罪穢れがいかに深刻であり、祓いがいかに重要であるかを再認識する必要があります。「謝ったから許す」という浅薄な考えでは、罪穢れの真の解決には至りません。私たちは、日々の生活において、罪穢れを避け、清浄な行動を保ち、他者との関係をより良いものにする努力を続けることが求められています。