けっきょく「面倒くさい」は続かない

あと半月で令和6年を迎えようとしています。みなさまは、どのようにお過ごしですか?私は新年祭に向けて掃除です。

私の歯並びはいいのですが噛み合わせが良くなくて、噛みしめで歯茎の腫れが今年はヒドイです。今までは上の歯茎だけでしたが、今年は噛み合わせた下の歯茎まで腫れて、羊羹が噛めないほど痛かったです。

そのため、今年の大掃除は年齢と歯茎を考慮して最低限の大掃除を行っていますが、それでもするとこが沢山有ります。(毎年言っているような気がしますね・・・)

大掃除は正直言って面倒くさいですね。でも、やらなくてはならないことなので、面倒くさいと言っていられません。普段よりも集中力が増しているような気がします。

この「面倒くさい」感覚は、物事が自分にとって向き不向きかどうか分かる判断材料になります。今年した挑戦で「お話し会」と「早起き・朝活」があります。

正直にいうと「お話し会」は告知や準備、ネタを考えるのが面倒くさいと感じました。面倒くさいと思っているので告知はギリギリなったりして周知できず、参加者もいなかったのですぐに止めることにしました。

一方の早起き・朝活は1月から続いています。といっても、朝5時半起きを半年ほど続けましたが、早起きに成功している状態ではありません。挑戦を通して自分の睡眠傾向や理想的な朝の過ごし方を知りました。一日を快適に過ごすための起き方に重点を置くようになったので、早起きのための早起きではありません。

「早起き・朝活は面倒くさい」となっていたら1年も続かなかっただろうし、自分の理想的な朝の過ごし方を知ることはできませんでした。

「面倒くさい」と感じたら、一旦立ち止まって自分にきいてみてください。「面倒くさいけど続けたいこと」「面倒くさいから止めること」のどちらなのか。

「面倒くさいけど続けたい」場合、それは本当はその出来事に対して面倒くさいではなくて、「どうしたらいいか」考えるのが面倒くさく、よくよ~く心を見つめると少しわくわくしているはずです。素直に楽しいと言えばいいのに、天邪鬼な心は面倒くさーいというので、やっかいですね。

こちらの場合はあなたに向いているし長続きするし、もしかしたら才能があるかもしれません。

もし、「面倒くさいから止める」の場合、「止める」ことを考えると心が軽くなるならサッサとやめましょう。時間とお金の無駄です、そのぶん「続けたいこと」に注力したほうが良いでしょう。

ただ、生きていると「面倒くさくてもやらなきゃいけないこと」はあります。

滝行などの禊行は、結局は面倒くさいことに向き合う力をつける修行なのではないかと思います。私は本格的な修行はしたことがありませんので、違うかもしれませんが。

霊的な話はおいといて、数回の滝行体験をする前とした後の違いを考えると、皿洗いを滝行と考えられるようになりました。滝行ってね、入る前に自分を鼓舞させるんですよ。そして、滝に打たれる覚悟を作ります。皿洗いをする前に、「よーし、洗うぞ、洗うぞ、洗うぞー」とかしていると、面倒くさい気持ちがなくなります。

自分で自分の責任を取るのが大人なので、「面倒くさい」なら止めてもいいと思いますよ。来年も新しいことに挑戦して、もし「面倒くさい」となったらサッサとやめようと思います。

今月の月次祭では釜鳴神事を行いました。(初挑戦です)