古事記の編者太安萬侶への3つの疑問

ミニアイリス:太安萬侶とはどんな人物だったか

左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳 (太安萬侶墓誌)

太安萬侶は和銅5年(712年)に約4ヶ月かけて稗田阿礼が誦習していた帝紀と旧辞を編纂しました。また、日本書紀や万葉集の編纂にも関わったとされています。多氏は神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫と言われており、多坐弥志理都比古神社に祀られています。

今回の記事もウィキペディアの太安萬侶読んで頂ければ十分な内容ですが、良かったら最後までお付き合いくださいませ。

古事記の編者・太安萬侶とはどんな人物だったか

太安萬侶は安麻呂か安満どれが正しいのか?

はじめの疑問は太安萬侶は「安萬侶」「安麻呂」「安満」どれが正解なのでしょうか?

古代の人の名前は表記が色々あり、どれが正解か一口に言えません。安万侶も同じです。万の旧漢字は萬なので、安万侶と安萬侶は同じとみなします。でも、安萬侶か安麻呂、安満は違う漢字なのでどれが正解か悩みますよね。

  • 安麻呂・・・『続日本紀』「弘仁私記序」「日本紀竟宴和歌」多神宮注進状
  • 安満・・・「日本紀竟宴和歌」
  • 安萬侶・・・古事記序と墓誌

「弘仁私記」は日本書紀の講義ノートと考えてください。日本書紀の講演(筵)は721年から約30年間隔で7回行われました。その一回目は太安萬侶が行ったと言われています。

「日本紀竟宴和歌」は日本書紀の講義の打ち上げに催された和歌会の歌集とイメージしてくださいね。この和歌会は4回目から行われました。続日本紀は延暦16年(797年)に完成されています。安麻呂、安満は太安萬侶の死後に書かれた本となります。

となると間違っていないけど、正しいかどうか怪しいでしょう。

古事記の序文は序文であっても天皇に申し上げた上表文です。また墓誌は大宝の喪葬令に則って書かれた文章です。二つとも公的な文章で、古事記所は自ら書いた点で言うと「安萬侶」が公式な名前となります。

太安萬侶の位が歴史書を編纂するには低い?

前回の記事で「国の歴史を選録するには低いと思われる身分」と書きました。なぜそう思ったか、本当に低い身分なのか考えてみたいと思います。

前回の記事:古事記の成立を知って、古事記はじめをしよう【初心者向け】

続日本紀から経歴を書き出します。

慶雲元年(701年)1月7日、正六位下から従五位下に昇叙。

和銅4年(711年)4月7日、正五位下から正五位上に昇叙。

和銅8年(715年)1月10日、正五位上から従四位下に昇叙。

霊亀2年(716年)9月23日、氏長を拝命。

養老7年(723年)7月7日、他界。

古事記の序文の最後に「正五位上勲五等太朝臣安萬侶」とあります。日本書紀の編纂に川島皇子を始め皇族以下12名が関わりました。編纂者を比べたときに古事記は舎人と文官の2名、日本書紀は皇族と官僚12名で身分が低いように感じました。

古事記を撰上したときは「正五位上」です。五位以上を貴族といい、三位以上は公卿といい、四位以上は特別な功績をあげた貴族しかなれませんでした。そう思うと低いとはいえません。

もう一つ気になったのが位階があるのに官職がないことです。続日本紀には他界したときの官位は「民部卿従四位下」とあります。しかし、序文や墓誌には位があっても官職がありません。そういう位があっても官がない人を散位といいます。

なぜ散位と考えられるのかは、多氏の氏長を任命されたからだと思います。官は役職やお仕事と捉えると氏長の方が仕事が重要だったと思われます。

多氏は大和国群を抜いての経済力を持つ一族でした。氏長は一族をまとめる力と氏神を祀る祭祀の仕事があります。そう考えると、別に散位でも太安万侶にはよかったのでしょう。

安萬侶は「太」と名乗っています。安萬侶が「太」と改名しましたが、次からは「多」に戻りました。多氏のなかでも特別な存在だったと言えます。

もう一つ散位だった原因に、宮廷専属の文官や文人学者は官職に就かされない傾向があったようでした。持統天皇文武天皇に仕えた柿本人麻呂に官職はありません。

太安萬侶は日本書紀の中心的存在の皇子に比べると身分は低いけど、決して身分が劣っていた訳ではありません。むしろ宮廷専属であること、多氏の氏長と考えると実力はかなりあったと考えるべきでしょう。

なぜ太安萬侶が古事記の編纂をしたのでしょうか?

元明天皇は和銅4年9月18日に太安万侶に「稗田阿礼が天武天皇のご命令の旧辞を選録しなさい」とご命令しました。

710年に平城京へ遷都し新しい都の歴史が始まるのに、天武天皇が命令を出されてから30年が経とうとするのにまだ国史が編纂されていないことを元明天皇は気にしていたのでしょう。なぜ、元明天皇は太安萬侶に編纂を命じたのでしょうか?

太安萬侶が任命された理由は優秀だったこと、と壬申の乱の功績があったと考えられます。天武天皇に関わる人が古事記、日本書紀に関わっているので太安萬侶に白羽の矢を立てられたのかもしれません。

元明天皇のご命令から約四ヶ月で古事記は完成します。ある程、度稗田阿礼が暗誦していたのを書き写せば良かったので4ヶ月で完成できました。

しかし、漢文という異文化で日本の素朴な心と言葉を書き表す才能が必要でした。この才能が太安萬侶にはあったからと考えられます。太安萬侶は漢文と和歌を理解していました。日本書紀の編纂にも関わったとされ、万葉集の編纂にも関わっていたといわれています。

壬申の乱についての功績は直接書かれていません。太安萬侶の父と言われる多臣品治は壬申の乱の功労者です。この時安萬侶は20才くらいで、父と行動を一緒にしていた可能性があります。

安萬侶は古事記の序文の最後に「正五位上勲五等太朝臣安萬侶」と書きました。勲等は通常、武功をあげた人に与えられます。この時の功績ではないかと考えられます。

最後に

太安萬侶は経済力があり、武芸もでき、漢文と和歌を理解する優秀な人物だったようです。日本書紀と比べると古事記の編纂に4ヶ月しかかかっていないことは、すでに稗田阿礼が誦習していた原本があったと考えられます。しかし、それを漢字を用いて意味と音を表し、古代の日本人の心を伝えたから後世まで残り親しまれているのではないでしょうか。

*新潮日本古典集成をもとに書きました。