古事記の現存する最古の写本について

雪柳:古事記の写本について

真福寺本について

「現存する最古の歴史書」の意味

「古事記は現存する最古の歴史書っていうけど、その意味が分からないよ。712年に完成した本が一番古い歴史書っていう意味だよね?」「学校では、最古の書物って習ったような気がするんだけど?」

 

 

「現存する最古の歴史書」の意味が分からないって、気持ちよく分かります。私も分かったようでよく分からない文章だと思っていますよ。この記事はこういう疑問にできるだけ添いたいと思います。

文章を分解して解説します

文章を分解すると、「現存する」「最古の」「歴史書」になります。「現存する」「最古の」は「歴史書」にかかる言葉です。これを分かりやすくすると、こんな感じです。

古事記は、古事記の写本が現在実際に存在して、その写本によって一番古い歴史書だと証明できる書物である、という意味になります。

歴史書

まずは「書物」の定義を確認します。『新明解』では、書物とは「本の意の漢語的表現」とあり、本とは「人に読んでもらいたいことを書いて(印刷して)まとめた物」とあります。古事記が編纂された年以前に書かれた文字や文章は古墳や遺跡から見つかっていますが、「まとめた」状態になっていないので「書物」ではありません。

「書物」ではなくて「歴史書」となっているのは、日本最古の書物は聖徳太子が書いたと言われている『法華義疏』(さんぎょうぎしょ)とされています。

「歴史書」とされているのは、天武天皇が歴史書を作るようにと命じたからです。天武天皇が歴史書は国家の根本であり、天皇の政治の基本となる(「邦家の経緯、王家の鴻基」)と考えました。天皇家に伝わる帝紀と旧辞と諸家に伝わる帝紀と旧辞が異なっていることを知り、このままだと本当の歴史がゆがめられてしまうことを心配して稗田阿礼に天皇家に伝わる帝紀と旧辞を暗誦させました。

*よかったら、読んでください。古事記の成立を知って、古事記はじめをしよう【初心者向け】

「最古の」

古事記を編纂したときにはすでに歴史書はいくつかあったようです。

6世紀の欽明天皇の御代には、言い伝えを基にした日本の歴史を書い帝紀や天皇家の系図を書いた帝皇日継(ていおうのひつぎ)や先代旧辞がまとめられました。7世紀の推古天皇の御代には聖徳太子と蘇我馬子が天皇記、国記の編纂をしました。

なので、「最古の歴史書」となると古事記ではありません。残念ながらこれらの歴史書は残っておりません。

「現存する」

では、残っている歴史書は何か?それが今回の記事の「真福寺本」です。

まとめると、

文章を分解したら、余計にややこしく分からなくなったでしょうか?古事記は写本が現在実際に存在する歴史書であって、その写本によって一番古い歴史書だと証明できる書物である、という意味になります。

 

真福寺本

真福寺本は愛知県の名古屋にある真福寺に伝わる古事記の写本です。名古屋の方には大須観音と言った方が分かりやすいでしょうね。

真福寺の二代目の住持信瑜が賢瑜に命じて写させ、応安4~5年(1371~1372年)に書写し終えた本を信瑜が漏れ落ちたところや訂正箇所を直して完成させました。

初代住持の能信と信瑜は弟子に多くの書物と写させ「真福寺文庫」の基礎を築きました。二代目信瑜は東大寺東南院の聖珍法親王に仕えていたため、その信瑜を通して東南院から数多くの書物がもたらされました。また、鷹司関白家から東大寺東南院を経て多くの書物がもたらされました。

系統について

真福寺本の系譜写本は系統によって何種類か伝わっており、これを諸本か伝本と呼んでいます。

古事記の場合は伊勢系諸本と卜部系諸本に分かれ、真福寺本は伊勢系諸本になります。また卜部系諸本は卜部兼永筆本を祖本とする系統の諸本で伊勢系諸本より多く存在しています。

真福寺本の詳細は紙をつなげるための糊代部分から「賢瑜が28歳の時に写本した」と書かれてありました。また、写本の後に書かれた(途中もある)奥書に写本も元になった伝本についても書かれていました。

それをみると、真福寺本の上下巻は伊勢系、中巻は卜部系に属していますが、しっかり分けるのは難しいようです。奥書をまとめたものが右の図になります。(小学館日本古典文学全集「古事記・上代歌謡」より)

 

 

参考にしたもの

 

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