古事記の成立を知って、古事記はじめをしよう【初心者向け】


古事記の成り立ち
古事記は現存する最古の歴史書
夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰が其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作し、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。(『古事記』序文より)
古代の日本を知る手がかりとなる書物の一つに『古事記』があります。この本は現存する最古の書物、であり最古の歴史書です。書かれたのは和銅5年(712年)で、1371年に写本された真福寺本が古事記の最古の写本と言われています。
「参神造化の首を作し」とありますが、造化三神は神道大教また当社の御祭神の神様です。神道には聖典はありませんが、神道に関わる者にとって、また日本人の心のよりどころとなる大切な書物であることには違いありません。
古事記を親しむきっかけになることを願って、今回の記事は古事記の基本的な知識をまとめました。是非、最後までお付き合いください。
今回の記事の内容
- 古事記の成立した背景
- 古事記と日本書紀の違い
- 古事記の魅力
古事記の成立した背景
『古事記』ともう一つ重要な書物に『日本書紀』があります。『日本書紀』は「日本紀」ともいわれ日本書紀は養老4年(720年)に舎人親王が撰上しました。
たった8年の差でなぜ2つの書物が必要だったのでしょうか?それは、この2つの書物の成り立ちの背景には同じ流れの中にあるからです。
6世紀の欽明天皇の御代には、言い伝えを基にした日本の歴史を書い帝紀や天皇家の系図を書いた帝皇日継(ていおうのひつぎ)や先代旧辞がまとめられました。7世紀の推古天皇の御代には聖徳太子と蘇我馬子が天皇記、国記の編纂をしました。残念ながらこれらの歴史書は残っておりません。
そして、壬申の乱後に皇位についた天武天皇は国史を編纂する事業を受け継ぎました。壬申の乱で荒廃した国、バラバラになった心をまとめるために、天武天皇は歴史書が国家の根本であり、天皇の政治の基本となる(「邦家の経緯、王家の鴻基」)と考えました。
諸家に伝え持つ帝紀と旧辞が真実と違い、さらに嘘偽りを加えていることを知り、このまま放置すれば真実が伝わらず嘘が本当になる恐れがあることを心配して古事記を編纂するように命じました。また、東アジアの交流が盛んになり一つの国として交渉力をつけるために日本書紀を編纂しました。

記紀の違い
『古事記』と『日本書紀』をあわせて「記紀」とよびます。この二つの書物は同じ流れの中でできあがりましたが、編纂された目的は異なっていました。古事記は国内向けに、日本書紀は国外向けに書かれました。
中国の場合、「書」は帝王について述べる記と進化について述べる列伝、その他を備えた紀伝体の歴史書を意味し、「紀」は編年体の歴史代を意味します。「記」と「紀」の違いは目的の違いといえます。
目的の違いは編纂した人物にも表れています。古事記は舎人の稗田阿礼が暗唱していた物語や歴史を太安万侶が書き記しました。稗田阿礼は舎人で官位がなく、太安万侶も亡くなったときに五位でした。国の歴史を選録するには低いと思われる身分です。
一方の日本書紀は天智天皇や天武天皇の皇子、官僚が関わって完成されました。
記紀の違いを表にしました。
古事記 | 日本書紀 | |
キャッチコピー | 現存する最古の歴史書 | 日本最初の正史 |
編纂された年 | 和銅5年(712年) | 養老4年(720年) |
編纂に関わった人物 | 太安麻呂&稗田阿礼 | 舎人親王、川嶋皇子など12名 |
時の天皇 | 43代・元明天皇 | 44代・元正天皇 |
かかった年数 | 4ヶ月 | 39年 |
最古の写本 | 南北朝時代の真福寺本 | 奈良時代末期から平安時代初期の四天王寺本 |
巻数 | 3巻 | 30巻1巻(天皇系図) |
神話の占める割合 | 1/3巻 | 2/30巻 |
どこまでの歴史? | 33代・推古天皇 | 41代・持統天皇 |
記載する歌の数 | 112首 | 128首 |
書き方 | 紀年体 和漢混交体 | 編年体 漢文 |
一筋の系統を中心としたの物語 | 「一書に曰く」として色々な説を紹介する |
物語の内容や御神名の違いなど他にもあります。その違いを探しながら読み比べるのも面白いと思います。
古事記の魅力
現代では日本書紀よりも古事記の方が親しみやすく、沢山の本が出版されています。しかし、本居宣長の時代には日本書紀の方が圧倒的に主流でした。
書紀が完成された次の年から宮中で書紀の講義があり、その講義の内容をまとめた注釈書が「釈日本紀」です。また。紫式部は「日本紀の局」と言われたくらい日本書紀に親しんでおり、官僚達に勉強された歴史書でした。
本居宣長が30年をかけて完成した『古事記伝』によって、古事記は神道の最重要な書物であると見直されました。
古事記を編纂した太安万侶は古事記の序文と「続日本紀」しか記されておらず存在が確かにされていませんでした。昭和54年に奈良県の茶畑から人骨と木簡と墓誌が発見された事によって、彼は実在した人物であると確定されました。
稗田阿礼に至っては女性なのか男性なのか、また優れた人物であったというだけで舎人という身分がなぜ天皇直々に帝紀と旧辞を誦習させられたのか疑問です。
完成当時からあまり日の目をみなかった古事記が日本書紀よりも親しまれていることが、「古事記」の魅力の一つです。古事記の持つ力強さが、暗くなっている世の中を照らしてくれる存在になると思っています。
*「神道辞典」を参考に記事を書きました。